新聞をどう考えるか

私は高校2年生から約4年間、毎朝新聞配達のアルバイトをしていました。
17歳で父親を亡くし、短期大学へ進学するための学費を自分で稼ぐ必要があった私は、いくつものアルバイトを掛け持ちしていました。その中でも最も長く続けたのが新聞配達です。私の学生時代を最も支えてくれた仕事だったといえるでしょう。
毎朝4時半に起き、約260軒へ朝刊を配達する生活。今から45年ほど前のことですが、京都市内の中心部では8割以上の家庭が京都新聞を購読していたのではないかと思います。
読売新聞や朝日新聞などは、配達件数が少ないため配達すべき家と家とが離れており、自転車で回ることが多かったのですが、京都新聞はほとんどの家に届けるため、自転車よりも歩いたほうが効率的でした。まだ夜が明けきらない静かな街を歩きながら、一軒一軒ポストへ新聞を入れていく。その繰り返しが毎日の仕事でした。
夏は汗だくになり、冬は手がかじかむほど寒い。それでも休むわけにはいきません。雨の日も雪の日も同じ時間に新聞を届けることが私の日常でした。
今思えば、この4年間で培われた粘り強さや責任感、そして「決めたことは最後までやり抜く」という姿勢は、その後の私の人生や仕事に大きな影響を与えてくれました。現在、全国各地へ出張しながらデザインやブランディングの仕事を続けられているのも、あの頃の経験が土台になっていると感じています。
そんな経験があるからこそ、私は新聞という存在に特別な思いがあります。
今でも毎朝、出勤前には京都新聞の朝刊に目を通すことが習慣になっています。情報を得るだけではなく、長年お世話になった新聞への感謝の気持ちもどこかにあるのかもしれません。
しかし、その新聞に対して最近は複雑な気持ちを抱くことも増えてきました。
まず、新聞全体に言えることですが、速報性という点ではインターネットメディアに太刀打ちできません。昨日の出来事を翌朝知るというスタイルは、スマートフォンで瞬時に情報が届く現在では、大きな価値を持ちにくくなっています。
さらに紙面を開くと、全体の3分の1近くが通販を中心とした広告で占められている日も珍しくありません。もちろん広告は新聞社の重要な収入源です。しかし、読者としては以前よりも読み応えが薄くなったと感じることが増えました。
そして、私が最も気になっているのは紙面全体から感じる論調です。
これは京都新聞だけに限った話ではありませんが、社説や一面のコラム、記事の見出しなどに、特定の考え方へ偏っている印象を受けることが多々あります。もちろん新聞には編集方針がありますし、表現の自由もあります。それぞれの立場や視点があることも理解しています。しかし、多様な考え方が存在する時代だからこそ、できるだけノーマルな視点から物事を伝えてほしいと思うのです。
こうした傾向は新聞だけではなく、テレビや雑誌など、いわゆるオールドメディア全体でも指摘されることが多くなりました。購読者数の減少が影響している面もあるのでしょう。しかし、新聞というメディアがインターネットに大きく変化を迫られることは、20年以上前から予測されていたことでもあります。もし、もっと早い段階から、「紙の新聞」を守ることだけにこだわるのではなく、「情報を届けるメディア」として時代に合わせた形を模索していたら、違った未来もあったのではないかと思います。
これは他業界にも共通する話です。
例えばアパレル業界では、多くの企業が自社ECへの本格参入に出遅れました。その結果、ZOZOや楽天、Amazonといった巨大なプラットフォームに販売の主導権を握られ、今ではその差を埋めることに苦労している企業も少なくありません。
時代の変化は誰にでも平等に訪れます。しかし、その変化を受け入れ、新しい挑戦を続けた企業と、従来の成功体験に頼り続けた企業とでは、現在の姿に大きな違いが生まれています。
これは新聞業界も例外ではないのでしょう。
私自身、デザインの仕事を続ける中で、「今までこうだったから」という理由だけで同じことを続ける危険性を常に感じています。変えるべきところは勇気を持って変え、新しい価値を生み出していかなければ、生き残ることはできません。
長年お世話になり、学生時代を支えてくれた新聞だからこそ、これからも頑張ってほしいという気持ちはあります。だからこそ、現在の状況を見ると少し寂しさを感じます。
毎朝当たり前のように読んできた新聞ですが、私自身もそろそろ購読を続けるべきか、一度立ち止まって考える時期に来ているのかもしれません。



