テレビの栄光と衰退の道程
今回は最近特にクローズアップされているテレビや新聞などのオールドメディアとSNSや動画配信に代表されるインターネットの対立について、テレビの歴史に合わせて考えてみました。

最先端としての輝き
テレビが登場した当初、それはまさに「魔法の箱」だった。家庭にいながら映像と音声が同時に届き、人々は一斉に同じ番組を共有する体験に熱狂した。白黒放送からカラー放送へ、さらにブラウン管から液晶へと移行するなかで画質は向上し、視覚的なインパクトも増していった。こうした変化は確かに進化であったが、あくまで「画面を綺麗にする」改善に過ぎず、テレビという仕組みそのものは根本的に変わらなかった。つまり、番組が決まった時間に流され、それを受け身で視聴するという構造は、半世紀以上にわたって固定されたままだったのである。
社会の要求と乖離
一方で社会のニーズは絶えず変化し、利便性や多様性を求める方向へとエスカレートしていった。テレビはその要求に十分対応できず、そこに次々と新しいメディアが割り込んでいく。
たとえば「番組の放送時間に縛られる」不便さは、ビデオの登場によって克服され、やがて録画機能が一般化した。地方に電波が届かないという課題は、地方局の設置やケーブルテレビで補われたが、やがてインターネット配信により地理的制約はほぼ消滅した。さらに「見たい番組が少ない」という不満に対しては、ネット配信の多チャンネル化やオンデマンドサービスが解答を提示した。こうしてテレビが抱えていた弱点は、インターネットの普及によって一気に表面化していく。
テレビ局の対応と焦り
こうした時代の転換点において、テレビ局は必ずしも柔軟ではなかった。むしろ自らの権威を守るために、インターネットの情報を「不正確で危険」として敵視し続けた。だがその一方で、自局の番組ではYouTubeの映像を切り貼りしただけの企画が放送されるなど、矛盾した態度も見られた。番組の質も徐々に低下し、内容の乏しいバラエティ番組や偏向的なニュースが氾濫するようになった。加えて、特定の芸能事務所やタレントに依存する体質が顕在化し、ジャニーズ問題に象徴されるような「逸脱した優遇」が社会から批判される事態にもつながった。
ネットとの競争に敗れる
その間に、動画配信サービスは急速に進化した。NetflixやAmazon Prime Video、YouTubeといったサービスは、時間や場所に縛られず、多様なコンテンツを視聴できる環境を整えた。最近では大谷選手などの活躍で人気の「WBC」の放送権がNetflixに奪われるという象徴的な出来事まで起き、テレビの牙城はついに外部から侵食され始めている。さらにSNSが登場すると、若者は自ら情報を発信・共有することに熱中し、テレビの存在感はますます薄れていった。
世代間の分断
その結果、現代ではテレビ中心の中高年層と、ネット中心の若年層との間に大きな断絶が生じている。若者の一人暮らし世帯では、もはやテレビを持たないことが珍しくなく、SNSや動画配信サービスが情報源の主流となっている。一方でテレビを見続ける中高年層は、ニュースやワイドショーを通じて形成された価値観に強く影響を受ける。この分断は政治的なスタンスや思想の隔たりにまで広がり、選挙結果にまで影響を及ぼすようになっている。
衰退の本質
テレビが衰退していった本質は、技術的な停滞以上に、産業構造の怠慢と奢りにあった。インターネットという大転換点に直面しながらも、自らの仕組みや価値を再定義する努力を怠った結果、時代に取り残されてしまったのである。新聞など他のオールドメディアも同様に、変化に対応できずに「過去の遺産」を食い潰す姿勢が批判を浴び、特に左派系のイデオロギーに寄り添う報道姿勢が「偏向」と見なされ、信頼を失う一因となった。
未来への警鐘
では、テレビはこのまま消滅するしかないのだろうか。答えは単純ではない。いまだにテレビには強力な影響力があり、大規模イベントや緊急時には多くの人が一斉に視聴する「同時性」という強みを持っている。しかし、それを活かすためには、番組の質を根本から立て直し、テレビならではの存在価値を再発見する必要がある。単なる情報の伝達ではなく、人々が「テレビでなければ体験できない」時間を提供できるかどうかが、今後の生き残りの鍵となるだろう。
もし現状のように惰性で低質な番組を垂れ流し続けるならば、テレビは確実に衰退し、近い将来、新聞とともに「過去のメディア」として歴史の片隅に追いやられていくに違いない。逆に、社会に必要とされる役割を再び獲得できれば、形を変えながらも新たな進化を遂げる可能性は残されている。